八月に入った途端、茹だるような猛暑日が続いた。耳障りな蝉の合唱は、暑さにしたがって日に日に調子をあげている。
 晴れた空は澄みわたっていてどこまでも青い。太陽は容赦なく家の庭を照りつけ、彼方に見える入道雲は少しづつ形を変えている。蚊よけに焚いた菊花線香の煙が、ほそく棚引いてとけてゆく。
 は濡れ縁の床に頬をくっつけ、汗ばむ身体をだらしなく横たえていた。もはやうちわで扇ぐような気力もなく、じっとしているだけでも玉の汗がにじみ出てくる。
 吊るした風鈴を撫でるように、たまさか吹き抜ける風も、湿気を孕んで生ぬるい。クーラーは口酸っぱく節電をとなえる両親によって、禁止されてしまった。

「真ちゃーん。暑いよ」
 扇風機の前を陣取るは、隣に腰かける幼なじみをちらと見た。蝕むような暑さにもかかわらず、緑間は顔色ひとつ変えていない。まっすぐに背筋を伸ばし、金魚柄のうちわで扇いでいる。基礎代謝が高いと、こうも具合が違うらしい。こちらを見ようともしない緑間に、は不満げに唇を尖らせる。
「ねえー、真ちゃんってば」
「…………」
 暑くて言葉を発するのが面倒なのか、緑間は一瞬だけに視線をやると、再び顔をそむけた。彼も別に彼女が憎いわけではない。母親同士の仲がよく、とは兄妹同然に育ってきた。
 正直なところ、緑間は目のやり場に困っていた。なにしろ今のは身体のラインが浮き彫りになるようなキャミソールと、ハーフパンツしか身につけていない。いくら自分たちが家族のような関係とはいえ、彼女はあまりにも慎みがなさすぎる。
 しかしは、そこまでの理解に及ばなかった。友人の高尾はこの恰好を見てもいたって普通であったし、彼との長年の付き合いからしてつい、いつもの無愛想だと片付けてしまう。
 彼女は寝返ってものぐさに背中で床を這いずると、緑間のシャツの裾を引っ張った。彼の背中は汗じみひとつないどころか、服からはかすかに洗濯洗剤が香っている。
 これだけの暑さで汗ひとつかかない彼はつくづく機械じみている、とは思った。

「んー無視しないでよー」
 緑間は薄く目をつぶりながら、観念したように口を開く。
、オレの前でみっともない恰好をするな」
「えーなんで?」
 間のびした声に、緑間は苛立った。
「いいからオマエは服を着るのだよ」
 苛立ちは暑さを増幅させ、喉の渇きを促す。緑間はそれ以上なにも言わず、そばに置いてあった麦茶のグラスを一気にあおった。

「あー、さては私のダイナマイト悩殺ボディにドキドキしちゃう感じ?」
 どこか勝ち誇ったようにが目を細める。そんなわけがあるか、と喉まで出かかった緑間だったが、その言葉は麦茶と一緒に大人しく流しこんだ。
「そっかそっか、真ちゃんまだ童貞だもんねえ。童貞には刺激的だよね」
 あまりにも見当違いすぎるの発言に、緑間はとうとう口に含んでいた麦茶を誤嚥した。は驚いて目を見開くと、膝立ちになって、盛大にむせる彼の背をさすった。
「ちょっ、大丈夫?」
 緑間は怪訝そうな表情を浮かべてを見た。
「……
「え、なに?」
 半笑いになって返事をした途端、は緑間によって濡れ縁の床に組み伏せられた。わけもわからないまま、手首を強く押さえつけられ身動きがとれない。自分よりも遙かに大きい男に押さえつけられているのだから、当然といえば当然だろう。
「えーと……真ちゃん?」
「そんな恰好をしているオマエが悪い」
 緑間の真剣なまなざしに、は自分の行いを後悔した。みるみるうちに血の気が引いていく。

「だ、だめ……私、真ちゃんのことは好きだけど……そういうのは、ちょっと想定外っていうか――」
「観念して大人しくするのだよ」
「や、嘘……だって私たち、ただの――いやあああああもうお嫁に行けないぃいい!」
 はぎゅっと目をつぶった。刹那、顔に一瞬の圧迫を感じたがそれはの首や肩を通りすぎ、腹部にぴったりと収まった。緑間はそこで満足そうに離れていったので、指先でおそるおそるそれに触れてみる。
「……なにこれ」
 触り心地のいいタオル地は、薄手の夏用腹巻だった。ショッキングピンク色のそれには小さなハートマークがいくつも散らされている。
「見ればわかるだろう。腹巻なのだよ」
「あ、そうですか」
「女子が腹を冷やすな。それとくだらないことを叫ぶな」
「はい。ごめんなさい」

 は寝返って腹這いになり、床に置いていた麦茶に手を伸ばした。汗をかいたグラスをつかむと、ふとコンビニに行った高尾のことが気になった。彼も緑間と二人で遊びに来ていたのだが、昼食を食べたあとじゃんけんに負けてコンビニまで三人分のアイスと飲み物を買いに出ている。
「ってかさー、高尾遅くない?」
 が壁にかかった時計を見上げた。出ていった時間を考えれば、もうそろそろ戻ってきてもおかしくない。
「大丈夫かな」
「子供じゃあるまいし、別になにも心配することなどないのだよ」
 心配するそぶりを微塵も見せない緑間に、が素早く上半身を起こす。
「じゃなくてさ、暑くてアイス溶けちゃわないかなって」
「……オマエは食い意地が張りすぎだ」









「おかえり高尾ー、見て見て」
 キャミソールの上に腹巻という滑稽な姿のを見て、高尾は「ぶふぉっ」と小さく吹き出した。手には白いコンビニ袋をぶら下げている。
「なにその恰好マジウケる」
「真ちゃん貸してくれたー。似合うでしょ」
「似合う似合う。つかハートの腹巻って。やっぱ真ちゃんチョイスかよ」
 高尾はの腹巻きから、緑間に視線を移した。未だ最初に吹き出した余韻が残っているのか、必死に笑いを堪えている。
「うるさいのだよ。そんなことより、アイスは買ってきたのか高尾」
「ちゃんと買ってきたって。、梨味でいいんだよな」
 高尾はコンビニ袋から薄黄色いゴリゴリ君を出し、に渡した。
「ありがとー愛してる!」
 はすぐさまパッケージを破り、アイスを口に含んだ。甘い梨の味が口の中でじわりと広がり、脳天を突きぬけそうなほどに冷たい。コンビニ袋の中には、アイスの他に、ビー玉入りの瓶ラムネが二本と、自販機で買ったらしい缶しるこが入っていた。急いで帰ってきてくれたのか、炎天下にもかかわらずどれもよく冷えている。
 高尾はラムネ瓶へビー玉を巧みに落とすと、と緑間のちょうど間に腰かけた。
 しげる夏草や木の立ちならぶ庭を、三人で横並びになって見つめる。

「ねー、つぎ練習休みの日っていつ? 一日オフの日」
 冷たいアイスに舌鼓を打ちながらは二人に尋ねた。
 東京都三大王者の一角に数えられる強豪の、秀徳バスケ部。今年はインターハイに出られなかったものの、だからと言って練習が生易しくなるわけもなく。夏休みに入ってから、緑間も高尾も、部活動に明け暮れる日々を送っていた。
 十一月には冬の大会の予選も始まるらしく、ここ最近は丸一日の休日などの知る限りではめったにない。
「あー、いつだっけ」
 高尾は仰いでいたラムネ瓶から口をはなし、緑間に目配せした。瓶の中でビー玉の転がる、小気味いい音がする。
「お盆なのだよ」
 それを聞いてはげんなりした表情をうかべ、居間のカレンダーを見た。つい先週、一軍の合宿から帰ってきたばかりだというのに。
「バスケ部ハードすぎなんですけど。二人ともいつ休んでるの?」
「休んでるって。今日も昼練ないし」
「それ休んでるって言わない気がするの」
「なんだよ。どっか行きてえの?」
 察した高尾の問いかけに、は待ってましたとばかりに目を輝かせる。

「プール行きたい! 海しょっぱいからプールがいい」
「あープールね。いいんじゃん? いつ行くよ」
「オレは行かん」
 すっかり行く気になっていた高尾とは逆に、緑間がすげなく返事をした。はすかさず口を開く。
「なんで? 真ちゃんいないとつまんない」
「だとさ真ちゃん」
 高尾は冷やかすように笑って緑間を見たが、当の本人は怪訝そうな表情をうかべるばかりだ。
「オレは別に二人でもいいけど?」
「高尾と二人は、なんか照れる」
 はもう一度、期待を込めたまなざしで緑間をみつめた。彼は食べかけのアイスからのぞいた棒を眺めて裏表を確認している。
。ひとつ聞いておく」
「うん?」
「そんなところに誘うくらいなのだから当然、課題は終わっているのだろうな?」
 緑間はなるべく落ち着いた口調でに尋ねた。まるで、終わっていないことに確信を持っているかのようだ。
「…………」
 課題のことを言われると、耳が痛い。聞こえないふりをして黙り込んでしまったに、高尾は隣で相好を崩した。


 先ほどよりも緑間の語気が強まり、は小さく肩を弾ませる。
「……えーと。だいたい、おおよそ、約半分くらいは……」
 実をいうとまだ半分も終わっていなかったのだが、言うと怒られることは目に見えていたのでほんの少しだけ虚勢を張った。
「ならオマエにプールに行く暇などないのだよ」
 にべもなく緑間がつっぱねる。の浅知恵など、彼には百も承知だ。
「いやぁあ! なんでよ、まだ夏休み半分以上は残ってるでしょ」
「オマエの頭で今から残り半分が終わると思っているとは、厚かましいのだよ」
 緑間の容赦ない言葉が、するどく尖ってにささった。が、彼女はめげずにすぐに前のめりになって、緑間を伺う。
「あっ……厚かましいってなに! 真ちゃん、私がプールで変な男にナンパされてもいいっていうの?」
「知らん。ナンパより成績の心配をしろバカめ」
「なによーもう、バカバカって! 真ちゃんの出来のいい頭とは違うんですぅー!」
 たしかに試験の結果は振るわなかったが、緑間が良すぎるだけで言われるほど悪い成績ではない。まあまあ普通の順位だ。
「まーまー、。ちょっと落ち着けって。ここは素直に聞いとけよ。真ちゃん教えてくれるって言ってんだしさ」
 二人の間にはさまれていた高尾は、ヒートアップしはじめたの肩を軽く叩いて諌める。
「高尾。オレはそんなこと一言も言ってないのだよ」
「照れんなって。どーせ泣きつかれたら面倒みてやるくせに」
 と、高尾が人の悪い笑みを浮かべる。肯定と取られてもかまわなかったのか、言い返すことを諦めたのか、緑間は沈黙した。
「オレもまだ全部は終わってねーしさ。別にプールは逃げねえんだし、宿題終わってからでも間に合うんじゃねえの?」
「わかった……」
 高尾の問いかけに少し間を開けて、はゆっくりと頷いた。こういう時の彼の言葉はいつも、魔法でも使ったかのようにの中へすんなりと入っていく。自分のことだけならまだしも、利発な緑間のことまでうまく言いくるめてしまうのだから大したものだと、は素直に感心してしまう。

 もはや棒だけになってしまったアイスを捨て、はラムネ瓶を手に取った。ところが思うように開けられず、ビー玉は中に落ちたものの、勢いづいた泡が大量にあふれだした。
「あーっ……!」
 甘い炭酸水がはじけながら、の手や腿を濡らしてゆく。
「あーあー、何やってんだよ」
 は縁側をおりてすぐさま、沓抜石の上に立ち上がった。こぼれたラムネが、ゆっくりと足を伝い落ちていく。強い日差しのせいで濡れたところは蒸発するように乾いたが、不愉快にべとついていた。しかも、瓶の中身はすでに半分以下になってしまっている。
「真ちゃーん……」
 今にも泣きそうな声で助けを求められ、見るに見かねた緑間は庭にある立水栓を指さした。
「いいから早く洗うのだよ!」
 はラムネ瓶を高尾に渡すと、むき出しの足にサンダルをひっかけて立水栓まで走り、蛇口の元栓をひねった。水の流れる音は聞いているだけで涼しさを感じさせる。期待感をつのらせ、いざ手で水をすくっただったが、思っていたよりもずっと爽快感がなくがっかりした。そのまましばらく流し続けたもの、強い陽射しで水道管が熱っているのかいっこうに冷たくなりそうにない。
 その間に、高尾は飲んでいた自分のラムネ瓶からの瓶へと少しだ中身を注ぎ入れる。元通りとはいかないが、ビー玉が浸るほどにはなったラムネ瓶を見ては打ち震えた。
「たっ、高尾……ちゅーしていいかな?」
「いやそれはしなくていいから。早く洗って戻ってこいよ。ぬるくなるぜ」
「うん! ほんとありがとう!」
 ぬるま湯のような水で、は手足を洗い流した。跳ねる飛沫が陽の光に反射して、ダイアモンドのかけらを散らしたようにキラキラと輝いている。

 風が風鈴の音をともない、梢を揺らしてそよいだ。わずかに冷えた空気は、濡れているの熱を奪ってまたたく間に通りすぎてゆく。
「ねー! 打ち水しようよ」
 が濡れ縁を振り返った。
「打ち水は本来、朝や夕方などの温度の低い時間帯にやるものだ。今の時間にやったところであまり意味などないのだよ」
 理屈っぽい緑間はどうも腰が重いようである。
「んもう、そういうのはいいの。高尾、手伝って!」
「へいへい」
 アイスをくわえたまま、高尾がぶらぶらと立水栓までやってくる。
 リールに巻かれたホースを引っぱりだしたは、蛇口に繋いで高尾に渡した。ホースヘッドからは、霧雨のような水しぶきが溢れだす。
 土の匂いがあたりに強くただよって、むっとした草熱れを感じた。地面は色濃く染まりながらぬかるみ、かすかな陽炎が立ちのぼる。目も眩むような青空をキャンバスにして、曲線を描いて落ちていく水の粒。七色に淡く輝き、ちいさな橋がかかった。
「わあー……!」
 あまりの美しさに、は思わず感嘆の声を漏らす。
「そらっ」
 高尾はいたずらっぽくホースを揺らして、の足をわざと濡らした。
「もっともっと! おもいっきりかけてよ」
 喜んで逃げ回るを、高尾がホースで追いかける。そして、ホースのダイヤルを回し霧雨から少し強めのシャワーに切り替えた。
「オマエらそのへんにするのだよ。飛沫がオレのところにまで飛ん――」
 が不意に濡れ縁を横切り、軌道がそれて大量の水が緑間にかかった。

「あ、ごめん真ちゃん」
 ずれた眼鏡のブリッジをあげた緑間は、じろりと高尾を睨みあげた。ずぶ濡れの髪からはポタポタとしずくが落ちて、頭から綺麗に濡れている。
「……高尾」
 緑間はそばにおいていた水鉄砲で躊躇なく高尾を狙い撃った。プラスチック製の黄色い水鉄砲から出た水は見事、高尾の顔に命中する。
「ぶわっ、つめて!」
「今日のオレのラッキーアイテムは、水鉄砲なのだよ」
 通常サイズの水鉄砲も、彼が握ると本当に子供のおもちゃのように見える。高尾は手の甲で、すっかり濡れてしまった顔をぬぐった。
「そういや忘れてたぜ。 、こっちもなんか――うおっ!」
 今度は背中に水がかかり、高尾は慌ててその場から飛び退いた。
「フッフッフー、私のは加圧式水鉄砲なのだよ!」
 どこから引っ張りだしてきたのか、は両腕に持てあます大きさの水鉄砲を抱えている。
「真似をするな!」
 間髪をいれず、緑間の打った水が今度はの腕に当たった。
「きゃー信じらんない女の子撃った!」
「どうでもいいけど二人して俺にかけてんじゃねー!」
 立水栓の元栓をいっぱいいっぱいにあけて、蛇のようにのたうつホースを高尾が持ち上げる。水は勢いを増してアーチを描き、緑間の肩を少しだけ濡らしたが、彼はそれを素早く避けた。
「フン、そう来ると思っていたのだよ、食らえ!」
「そう何度も同じ手は食らわねえっての!」
「こらー真ちゃんいじめたら私が許さないし!」
 の水が高尾に命中した。それを援護するかのように、緑間も続けて高尾を打つ。
「だから、オマエらオレを狙うなっつーの!」