家を出る直前まで、私は何度も鏡を覗きこんでいた。まつげはふんわりと上を向いているしアイシャドウもヨレてない。前髪もほどよくカールしている。
 ああでもないこうでもないと悩んで結局選んだ服は、小花柄の白ワンピにオフホワイトのカーディガン。差し色に、買ったばかりの赤いエナメルブーティー。ヒールの部分だけ青と白のストライプになっているのがお気に入りだ。昨夜はじめて足を入れたときは、まだつま先がきつくてしっくりとこなかったが、今はまるで体の一部のようだ。
 頭のてっぺんから足の小指の先に至るまで自分の姿に満足すると、私は上機嫌で家を出た。最寄り駅から電車に一駅ほど揺られ、私の足は気合い十分に臨海公園へと向かう。
 校外で泰介に会えるのは久々だ。運動部の主将というのは例にもれず、自分のことだけでなくチームのことに気を配る。まして、それが強豪校とあればなおのことだろう。彼氏の人望が厚いのは彼女として鼻が高い。だから必然的に、休日は会える日が少なくクラスも違うため学校でもたまにしか顔を合わせることができない。二人で会う時はできる限り、少しでも自分を可愛く見せたい。
 ときおり、心に穴が開いたように寂しくなるけれど、彼はその隙間を埋めるように、毎日かかさずメールと電話をしてくれる。見た目はガタイのいい大男だが、中身はマメで甲斐甲斐しい。泰介のそんなところが、私はとても好きだ。

「ごめん、お待たせ」
 まだ十五分も前だというのに、泰介はすでに到着していた。なにやら熱心にケータイの画面を覗きこみ、メールを打っている。私はとっさに自分への連絡かもしれないと思い、小走りで彼に駆け寄った。
 時計台の下は定番の待ち合わせスポットで、泰介の他にもいくらかの人がケータイを片手に立っていた。けれど、どんな人混みにいようとも彼の長身は遠目からでもすぐに見つけることが出来る。彼は走ってきた私の姿を認めると、いじっていたケータイをポケットにしまった。
「まだ早いんだ。そんなに慌てて走らなくていい」
「だって、待たせちゃったのには変わりないし」
 そう言うと泰介はまとっていた雰囲気を和らげて、私の腕を取る。
「行くか」
「うん」
 泰介はいつもより歩幅を縮め、半ばゆったりとした足取りで歩き始めた。
 向かうのは市内でも指折りの大型ショッピングモール。今日はお互い、とくに目当ての物はないけれど、散歩がてらにモール内を二人でぶらぶら歩く。気になったお店を冷やかして、たまになにか買い物をして、疲れたらどこかのお店で一休み。あまり肩肘を張らずに、二人でのんびりとした時間を過ごす予定だ。

「三階にある本屋のとなりのお好み焼き屋さん、いまチャレンジメニューやってるらしいよ」
 ふと、クラスメイトから聞いた話を思い出した。
「お好み焼き四キロ全部食べきったら金一封って」
「四キロってかなりあるぞ。そんなの食える奴いるのか?」
 泰介が半信半疑に目を瞬かせる。
「それがさあ、たまたまクラスの子が行ったときに達成者出たんだって。泰介もやってみる?」
「いや、いい。それより、一階の手芸ショップに寄ってもいいか?」
「いいよ。また毛糸買うの?」
 彼の風体からはとても想像のつかない特技に、私は口元を緩ませた。
 家庭科の授業で編み物を習ってからというもの、泰介はどんどん腕をあげている。誕生日には、かわいらしい手編みのニット帽をくれたこともあった。
「ああ。最近、あみぐるみも作りはじめてな」
「あみぐるみかあ。可愛いけど、なんでまた?」
「前に話した一年の後輩、覚えてるか?」
 泰介の問いかけに私は思考回路を巡らせる。彼がたまに話題にする一年の後輩というのは、たしか二人いたはずだ。両方とも試合で見た程度の面識しかないので顔面の造形はおぼろげだが、そのうちの一人がどうやら相当な変わり者らしい。なんでも、星占いにこだわりがあって――。
「あー、かに座のおは朝メガネ?」
 とにかく尋常じゃないほど験を担ぎたがって、毎日ラッキーアイテムを持ち歩く後輩がいると聞いたことがあった。
「そうだ。そいつが、ツタンカーメンのあみぐるみを探しててな」
「なにそのおは朝からの挑戦状」
 ツタンカーメンというと、あの有名な金色のマスクが思い浮かぶ。クマやウサギやカエルなどならよくデフォルメされてあみぐるみになっているが、ツタンカーメンは……あるのだろうか。
「どこを探しても見つからんそうで、オレが作った」
「それ、見たいんだけど写メとかないの?」
 ”ツタンカーメンのあみぐるみ”は、私の好奇心を悶絶寸前までくすぐっている。
「あるぞ。今日ちょうど見せようと思って、撮っておいたんだ」
 泰介は上着のポケットからケータイを出すと、フォルダを開いて私に手渡した。そこには私の想像を遙かに越えて、より精密に黄金のマスクを再現したあみぐるみ――そして、それを怪訝そうな顔でつまんでいる宮地くんが写っていた。

「なんか思ったよりリアルなんですけど……」
「今はカエルを編んでるんだが、も何かいるか?」
「じゃあ、私もツタンカーメン欲しい」
「いいぞ。型紙が同じものだから思ったより早く完成しそうだな」











 臨海公園から少し歩いたところにあるショッピングモール。三連休の真ん中だけあって、人混みで溢れている。流れにのまれ泰介とはぐれてしまわないよう、私は彼の腕にしっかりしがみついた。履きなれないブーティーのせいか、少し歩いただけなのに足がもたつく。
「さすがに多いな」
「だねえ。家族連ればっかり」
 平日に訪れた時とはまた違った客層で、どこを見ても子供がいる。私もいつか、母親になったら自分の子供とこうしてここに来ることがあるのだろうか。素敵な旦那さんと、子供を挟んで手を繋いだり……子供は一姫二太郎、ううん元気で健康に生まれてくれたら性別なんてどっちでもいい。男の子だったらバスケ習わせたいな。それで、ガレージにバスケットゴールも作ってあげて……、
「――?」
 不意に泰介に呼ばれ、はたと現実に戻った。私は平静を装って、泰介に向き直る。
「えっ、なに?」
「何をそんなにニヤけてるんだ?」
 思いがけず指摘されて、私はあたふたと震える口元を抑えた。妄想がほとばしりすぎてつい、顔に出てしまったらしい。
「なんでもない」
 私はなんだか居たたまれなくなって、緩みっぱなしの頬を隠すように頷いた。
 ちょうどその時、前方から元気よく走ってきたらしい小さな男の子が、泰介の足にぶつかった。男の子は勢いで跳ね返り、その場で尻もちをつく。
「っと、大丈夫か?」
 泰介はすぐにしゃがんで、突然のことに呆気にとられている子供を起こした。
「うん平気。ぶつかって、ごめんなさい」
「ああ、ちゃんと謝って偉いな」
「ママとはぐれたの?」
「ううん。後ろにいるよ」
 男の子が振り向くと、三十路前後の女性がややあって人混みをかき分けながらやって来た。
「すみません、子供がご迷惑をおかけして……」
 母親らしきその人は、申し訳なさそうに何度も頭を下げる。
「いえ。怪我もしていないようでよかったです」
 爽やかに応対する泰介を見て、私は密かにほくそ笑んだ。きっとこの親子の中で、泰介の株はストップ高に違いない。最後に、男の子は会釈する母親に手を引かれて、元気よく手を振った。
「バイバイ、おじちゃん」
「おっ……」
 かけらの悪気もない彼の笑顔に、泰介は声を失ってその場に立ち尽くした。なんか、前もそんなようなことあったって木村くんから聞いたことあるような。私は、落ち込む泰介の手をとった。
「泰介、ねえあっち見て。わー、あのジェラート美味しそう私あれすごく食べたいなー」
、オレはそんなに老けて見えるか?」
 あまり効果はなかった。声音が明らかに沈んでいる。
「そんなことないよ。 ほら、私なんて小さい時は年齢の分だけ背が伸びると思ってたから……たぶん、泰介も背が高いからそう見えたんだって」
「そうか……」
「そうそう。ね、手芸ショップ行こうよ。あみぐるみ、作ってくれるんでしょ?」
「……そうだな。行くか」
「うん。私、クマも欲しいな」
 なんとか気を取り直してもらい、私は内心胸をなでおろした。
 手芸ショップで毛糸を選んだあとは、評判のお店でジェラートを食べ、雑貨屋を冷やかしている時だった。
「っ……」
 足首に熱く鋭い痛みが走って、私は思わず顔を顰めた。痛む足を盗み見ると、ブーティーの履口が擦れているらしかった。
「どうかしたのか?」
「 ごめん、なにか落とした気がして。気のせいみたい」
 泰介は足を止めて私を振りかえったけれど、私は訴えかけてくる痛みを一切無視することにして一歩を踏み出した。
 知られたらきっと泰介は今から私を家に帰すだろう。時刻はまだ正午をまわったばかりだ。デートの約束をしてからずっと、この日を楽しみにしていた。彼が私のために割いてくれた時間を、こんなことで台無しにしてたまるものかと私は足の痛みを堪える。
 けれどいつまでも靴ずれのことを隠し通せるはずもなく、エスカレーターで上の階へ移動し、スポーツ用品店に足を運んでいた時、痛みはさらに顕著になった。眉を顰め、辿々しく片足を引きずって歩く私を見かねて泰介は立ち止まった。
。足、見せてみろ」
 真剣味を帯びた声を聞き、とっさに身体がぎくりと硬直した。
「私なら大丈夫だよ。ね、そんなことよりホラ。バスケ用品、見に行こうよ」

 強張った声で名前を呼ばれたが、返事をする意気地もなく、私はただ何も言うまいと口をつぐんで目を伏せた。
「ちょっと、そこ座っとけ」
「あっ、泰介……」
 泰介は困ったように嘆息すると、すぐ近くにあったベンチに私を連れていき、座るように促した。私はしぶしぶとそこに腰を下ろし泰介を待っていると、彼はものの数分もしないうちにドラッグストアの袋をぶら下げて帰ってきた。
 二メートル近い大男が、ベンチに座る私の前に跪く。そして袋から、買ってきたばかりの消毒液を取り出すので私は観念して左足を差し出した。
 大きな両手が私の足を掴んで、ぎこちない手つきでブーティのファスナーをおろした。靴が離れていくと同時に、足首に焼け火箸を押し当てられたような痛みを感じ、私はみっともなく表情を歪めた。水ぶくれが潰れて、傷口はまだ生乾きでうっすらと血を滲ませている。
 足の裏に泰介の指が触れ、私はくすぐったさと羞恥心に身体をびくつかせた。彼は靴を脱がせた時とは反対に、今度は手慣れた様子でまだ乾き切らない傷口に、繊細な手つきで絆創膏を貼った。白い包帯を惜しみなく、幾重にも巻いてゆく。
 骨ばった手の指先がどこか慈しむように私の足に触れるたび、胸が震えて、言いようもなく気持ちが高ぶった。
 そうして彼は元の通りブーティを私に履かせ、最後にそろりとファスナーをあげた。

「……ごめんね」
「なんで謝る?」
「だって、久しぶりのデートなのに。泰介にこんなことさせちゃって」
「別にこれは、オレがしたくてしてるだけだ」
 左足の靴ずれに、私を思いやってくれる言葉がジンと染みて泣きそうになる。
「立てるか?
「立てない」
  私はすねたふりをして唇をとがらせる。「帰ろうって言わない?」そう続けると、泰介はくっきりと浮き出た喉仏を上下させて、こらえるように笑った。
「ああ」
 彼は私の手を取り、ゆっくりとベンチから立たせる。
 赤いブーティーからちらりと覗く白い包帯。不恰好なそれが、私はとても嬉しかった。