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誰かが悲鳴をあげている。それは産声のようにも、咆哮のようにも慟哭のようにも聞こえ、いつからか私の鼓膜にべったりと貼りついたように離れなくなった。 「おかえりなさいませ、征十郎さま」 三つ指をついたまま面を上げると、それまで威儀を正していた征十郎さまが和らいだ表情を見せた。 「ただいま、」 最後にお別れした時よりも、前髪がすこし伸びている。征十郎さまは仰々しい出迎えを好まれない。最近は使用人の仕事の邪魔をしたくないとおっしゃり、お帰りになることを教えてもらえなかったときもあった。 征十郎さまは持っていた小さめの紙袋を「あげるよ」と私に差しだした。鳥の子色の袋には花のような形の模様が散り散りに描かれており、その中身が蕎麦ぼうろだとひと目で分かった。 「ありがとうございます。征十郎さまからだっていったら、きっとみんな喜びますよ」 「……それはのお土産なんだけどな」 そう言って征十郎さまは眉を下げて、まだ幼さを残した穏やかな笑みを浮かべている。 「もう食べたくなくなったのか?」 そこでようやく、自分でもすっかり忘れていたようなことを思い出した。前回の帰省で京都でのことを聞く際に「蕎麦ぼうろが食べたい」と、うっかり口走ってしまったのだ。 「すみません……覚えててくださったんですね」 なんだか催促をしてしまったようできまりが悪い。嬉しさと恥ずかしさで胸がないまぜになり、私の顔にはたちどころに仄かな熱が集まってきた。 「気にするな」 「大事にいただきます」 「部屋に行く。軽くなにか食べたい」 「わかりました。すぐにお持ちいたしますね」 「ああ」 征十郎さまは荷物を持ったまま廊下を横切ってお部屋へ向かい、私はそれを見送ってからキッチンへ足を運んだ。 父はもともと昔気質の町工場を経営していたが、不慮の事故に巻き込まれ、借金を残してこの世を去った。身を粉にして働く母に、父の学友であった旦那様が恩情をかけてくださり、母は住み込みの家政婦として赤司家に雇い入れられた。もう十年近くも前になる。 ご子息の征十郎さまと出会うまで、私はこれほどまでに非の打ち所がない人間がこの世に存在するなんて夢にも思わなかった。彼は幼いながらも利発で思慮深く、頭の良さは大人も舌を巻く。しかし、それを鼻にかけたりするような傲慢さはない。赤司家の人間にと って、あらゆる面で人より優れ、人の上に立つことはごく当然のことだからだ。年齢は私のほうが六つ上だったが、普通の子どもとは一線を画した彼に対して親しみを抱くのにそう時間はかからなかった。 私は高校を卒業すると母と同じように、赤司家で使用人として働く道を選んだ。少しでも早いうちから旦那様のご恩に報い、なによりも征十郎さまのお役に立ちたかった。大学くらい行きなさいとはじめは反対されていたが、出たところで私にこの家で働かせてもらうこと以外の選択肢はない旨を伝えると、最終的に母が根負けしたように折れてくれた。 高潔な王が義務を果たさんとするように、征十郎さまはご自分の心が常に正しくあることを望み続けた。 そのことで彼の繊細な心はひどく摩耗し、やがて歪みを産みだした。 兆しが顕著になったのは、思春期にさしかかった頃からだろうか。物柔らかな征十郎さまのご尊顔に陰りが見えることが多くなり、時おり足がすくむほどの鋭利なまなざしを垣間見せるようになった。噛み合っていないままの歯車を無理やり回して生まれる鈍い軋轢の音に、気づいていながら知らないふりをしている。 貪欲に底光りする双眸。その輝きは何にも勝るほど美しい。けれど、身震いするような闘志をみなぎらせ、何もかもを屈服させて自分の手中に収めようとする。どんどん、私の知らない人になっていく。 征十郎さまはご生家から遠く離れた京都の学校へおひとりで進学なさり、長期休暇でもこちらへ帰ってくることは少なくなった。たまに思い出したように帰ってきても使用人を近くに置きたがらず、旦那様が屋敷にいらっしゃらない時はお見送りを拒むようにもなった。 「失礼いたします」 部屋へ入ると、彼は朽葉の着流しの上から黒鳶の帯をゆるく結び、窓のそばにあるソファにゆったりと座りながら何をするでもなく寛いでいた。ガラス一枚を隔てた向こう側で橙色の夕日がゆっくりと地平線に溶けだしはじめている。私は膝立ちになり、運んできたお茶とサンドイッチをテーブルに並べた。 「朝晩と、冷えてまいりましたね。盆地の気候がお身体に障らないか心配です」 「大丈夫だ。こちらよりはまだ温かいよ。けど、冬物を早めに送ってくれて助かった」 「お役に立てて、嬉しゅうございます」 征十郎さまはゆっくりとした動作で、ハーブ入りチーズと生ハムで作ったサンドイッチを口に運んだ。そんな仕草のひとつまでもが美しく、私はまるで映画の断片でも見ているような感覚に陥る。 「あの、征十郎さま」 「どうした?」 私は膝立ちのまま、征十郎さまに向き直った。 「図々しいことを承知で、お願いがあるんです」 「いいよ。言ってみるといい」 彼は白磁のカップを優美にもちあげて、そこに口をつける。 「この冬の大会、私も試合を観に行っていいですか?」 「いいけれど……はバスケに興味がないだろう? 来てもつまらないんじゃないか」 「バスケに興味なくっても、私は征十郎さまのご活躍が見たいんです」 「じゃあ年末だ。休みはとれそうか?」 「もぎとります!」 そう息巻くと、征十郎さまはくすりと笑ってカップをソーサーに置いた。とても穏やかに微笑んでいらっしゃる顔を見て、私はひそかに胸を撫でおろした。きっとお友達の前では、こうして笑うこともあるのだろう。彼は大人の前ではいつも、呼吸もままならず喘いでいる。 「そばへきてくれ、」 「いかがなさいましたか?」 「試合を観にくるのなら、ひとつだけ僕と約束をしてくれないか」 「はい。必ず守ります」 「は、僕が勝つことだけを考えろ」 両の瞳が研ぎ澄まされたように光り、服従を求めてまっすぐと私を見据えた。心すべてを見透かされるようなまなざしに、自分の意思とは関係なく喉の奥が締まって、全身が総毛立つ。 「どうして、そんなこと仰るんですか……」 「僕から勝利をとって残ったものに、なんの価値もありはしないんだ」 そんなことはない、と言い張りたい。けれど彼の威圧は無言を許さず、それでいて求めている答え以外を許すつもりもなかった。 「なにか……ご覧になったのですか、征十郎さま」 「僕の勝利を、本当に心の底から望んでるのか?」 征十郎さまが私の腕を強く掴んだ。形のいい爪が衣服の上から私に触れて今にも一つになろうとせんばかりに、性急に肌に食い込む。半ば懇願しているように思えて、私は彼の寂寥を埋めるようにそこへ手を添えた。触れた指先に、自然と力が込もる。 「あなたが負けるところなど、私には想像もできません。なにをそんなに怖れていらっしゃるのですか?」 私にはときどき、彼が小さな子供のように見える。頼りなげで脆く、傷つきやすい。どこまでいっても果てのない暗闇に怯えて、泣いているような弱さだ。 差し込んでくる西日が眩しくて、目を眇めずにはいられない。 「僕は、なにも怖れてなどいないよ」 「そうです。あなた様を脅かすものなど、なにもありはしません」 両頬が、征十郎さまの両手に包み込まれた。ぞっとするほど冷たい手だったのに、私の顔はみるみる熱を帯びていく。 逃れられないほど強い力を湛えた瞳が私をとらえ、ほんの数秒、視線が交錯し、瞬く間に征十郎さまは私に口付けた。自らの存在意義を問うようなそれでいて居場所を求めているような唇。触れているだけなのに根こそぎ愛情を貪ろうとする。その蕩けるような甘さを、私は一生忘れないだろう。 「勝つこと以外は、許されないんだ」 離れた唇からぽつりと溢れたような言葉は、かすかな戸惑いを孕んでいた。彼は、ただひたすらに押し寄せる虚無感に一人で立ち向かうしかない。 「私の王は尊いお方です。何があろうとそれは変わらないのですよ」 征十郎さまは薄く目を伏せ、まるで憑き物が落ちたように微笑んだ。 あとどれほど勝ち続ければいいのだろう。どれほど強くあり続ければ、この見えない鎖から開放されるんだろう。天からの授かりものに甘えることなく、文字どおり血の滲むような努力を重ねてきたのに、人並みの幸福を味わうことすら許されないというのはあまりにも惨い。 生まれながらにして王座に座り、多くの人間に傅かれていようとも、実態はまるで独房に閉じ込められている囚人のよう。なんぴとたりとも近づかせぬ、畏敬と恐懼で出来た檻の向こう。昏く冷たい牢獄で、一筋の光も見えないまま、ずっとひとりで叫んでいる彼の声に、少しでも耳を傾けようとした人が今までにどれほどいただろうか。 才能とは時として禍々しい。音もなく身体を蝕む病魔と似て非なるもので、常人を超える資質は必ずしも身を助けるだけのものではない。高貴な魂に伴う枷は、想像を絶する苦しみと飢えを征十郎さまに与え続けている。その背にのしかかっている重圧に今にも押しつぶされそうだ。 征十郎さまは私の膝に頭を預け、子宮で眠る胎児のように背中を丸めてうずくまっている。どうか今だけは温々とした羊水に浮かび、清らな夢だけをみてほしい。 そんな祈りを込めながら、私は彼の髪に指を差し入れ、ゆっくりと梳いた。 彼がこの細く頼りない臍帯にすがるなら、私は喜んでそれを受け入れたい。私には鉄枷を外してあげることはできないけれど、彼の孤独に寄り添うことならできる。願うことを許されるなら、私が征十郎さまの母ならばよかった。そうすれば私は彼を抱き締め「大丈夫よ」「怖くないわ」と囁いて、優しく背中をさすってあげられるのに。彼の背中にあるものを少しでも軽くすることができるなら、きっと私はなんだってするだろう。 眩暈がするほど遠い日――けれど今でもその光景はまぶたの裏に焼き付いている。 「征十郎さま。私、征十郎さまのお母さまになりたいんです」 彼は私の言葉に一瞬目を丸くしたあと、柔らかくそれを細めた。小さな肩を竦めて、意味をはかりかねたのか困ったように私を見つめている。 「おもしろいことを言うね、」 「いいんです、別に。わかってもらえなくたって」 征十郎さまは大切なものを扱うように私の手をとった。 「そうじゃなくてよかったけどな」 彼の小さな親指が私の甲から指を何度もゆっくりと往復する。そのたびに私は身体の芯から包み込まれるような淡い温かさを覚えた。 「オレは、がでよかったよ」 ![]() |