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宵闇が迫る校庭は昼間の喧騒が嘘のように鳴りを潜めている。そこに生徒の姿はほとんどない。自販機の取り出し口から、虹村はコーヒー缶を拾いあげた。彼は熱い缶を手の中で転がしながら、ゆっくりとベンチに腰掛ける。左右の頬や耳に缶を当て、しばらくその温もりを味わいながら刻一刻と時間が過ぎるのを待った。 紫の階調が濃紺に変わり、待ち人がようやく姿を現したのは完全に日が暮れてからのことだった。 「おせーよ」 虹村はマフラーを口元まで引き上げて、催促するようにベンチから立ち上がる。暖をとるために買った缶コーヒーは、すっかり微温くなってしまっていた。 「うーん、長引くとは思ったけどここまでとは思わなかったわ」 は生徒会執行部で会計を務めている。忙しいのは特別行事の時期と学期の終わりだけで普段はあまり仕事らしい仕事もないらしいが、今日は余った部活動予算を分配する急な会議が入った。本当ならば、来週の模試の対策をするために二人で区立図書館へ寄るつもりだった。しかしもう自習室が予約できる時間は終わってしまっている。 「演劇も吹奏楽も実績は同じくらいで、一歩も譲らなくてさ。会長も呆れちゃって『ジャンケンで決めたら?』なんて提案したら『大事な予算を運任せに決めるな』とか『ジャンケンにするならうちにも参加させろ』とか部長たち好き放題言い出して、もうぐっちゃぐちゃ」 「とりあえず飲んどけ」 大きく息を吐きだすに、虹村が缶コーヒーを差し出す。彼女は黙ってそれを受け取るとプルタブを開けて一気に呷った。真冬の寒空の下、マフラーも巻かず剥き出しの白い喉が嚥下に合わせて動く。 「……帰ろっか」 「おう」 寄り添うわけでもなければ手を繋ぐわけでもなく、虹村とは絶妙な距離を保っていた。のとりとめのない話に虹村が短い相槌を打ち、特に急ぐこともなく家路を辿る。街路灯の少ない夜道は思っていたよりも暗く、いつもは迂回していく公園も、今日は突っ切ることにした。細い枝々を震わせる木枯らしは、葉擦れを奏でながらそんな二人の間を吹き抜ける。 「本当言うと、待ってると思わなかったんだよね」 「あん?」 「模試、来週でしょ。悪いことしたなって」 「別に。待ってんのはオレの勝手だろうが」 素っ気なく言うと、虹村は巻いているマフラーに口元を埋めた。夜道を一人で歩かせてに何かあるより、自分の目の届くところにいてくれたほうがよほどマシだ。当の本人は、虹村がそんなことを思っているなど露ほども思っていないだろうが。 「オマエこそ勉強すすんでんのかよ」 「それがですねえ、化学が伸びないから虹村に聞こうと思ってたんだけど……」 「土曜、空いてんのか?」 「空いてるわ。一日フリー」 「午前と午後、自習室の予約取っとけ」 「オーケー、虹村には英語教えたげる」 気の抜けたような顔で微笑むから、虹村は余計な世話だとばかりに視線を外した。 彼方からトン、トン――と弾むような音が聞こえる。花壇を隔てた先にあるバスケットコートで、ゴールの半分の背丈にも満たない少年がシュートをしていた。 虹村の視線が、彼の動きをなぞる。ボールと地面がぶつかり合う音。赤と青と白の三色のボールが、ゴールリングにぶつかって撃ち落とされる。彼は慌ててそれを拾い、もう一度放った。ネットを潜らず、ボールが落ちる。投げては落ちる。まるで、何度も巻き戻されては再生される映像を見ているようだった。 繊細な色が、虹村の頭の中を彩る。薄れていたはずの記憶が、音さえも伴って蘇った。体育館の床とバッシュのこすれあう小気味良い音。相手ディフェンスを崩すドライブイン、ブロックを躱したシュート――ボールがリングを貫いて、試合終了のブザーが鳴り渡る。夥しい人々からの声援と喝采。それらが合わさって、脳内で不調和な音楽を奏でている。 「へー。ここ、バスケットコートなんてあったんだ」 感心したようなの声で、虹村はようやく我に返った。どうやら、自分でも知らず知らずのうちに足を止めていたらしい。勢いよく転がってきたボールが虹村の靴のつま先にぶつかる。 「すいませーん」 虹村は大きな手でボールを掴み、追いかけてきた少年に放った。それは均整のとれた弧を描き、彼の胸の中にすっぽりと収まった。 「うわっ……あの、ありがとうございます」 ボールの勢いに少し驚きながら、少年は会釈する。 「打つ時、リングにつま先向けるのを意識しながらやってみな」 「……はい!」 彼は嬉しそうに返事をして、また一直線にコートに戻っていく。それを最後まで見届けず虹村は再び歩き出した。 「優しいんだ」 がもの言いたげに虹村を見上げてくる。どこか意味ありげな眼差しが小憎らしい。 「あ? あんくらいフツーだろ」 「なに、照れてんの? ガラでもない」 「うっせ。一言余計なんだよ」 虹村は、指先でコツンとの額を小突いた。 強豪校の数あるスカウトを断ってごく普通の公立高に進み、バスケとは距離をおいた生活を送った。遠い昔の事のようにとらえていたが、どうしようもなく体に染み付いてしまっている。ボールに触れた手を見つめた。めぐる血が沸騰するような、快楽めいた感覚に襲われた気がした。 「中学ん時、バスケ部だったんだわ」 「ええ、なにそれ? 初耳だわ」 とは一年の頃からつるんでいるが、中学のことや父親のことは何も話さなかった。ましてバスケのことなど、話すつもりもなかった。今の自分しか知らない関係が楽だからだ。 「……ん? あれ。そーいえば虹村ってさ、一年のときの自己紹介で出身中学帝光とか言ってなかったっけ」 「おー、よく覚えてたな。付加脱離反応は覚えらんねえのに」 「虹村だって一言余計だと思うよ」 じろりと睨むような目つきで虹村を見つめる。虹村はどこ吹く風だ。 「あのさ、帝光ってバスケめちゃくちゃ強いとこだよね。私でも知ってる」 「そーだな」 「虹村、勉強できるけど運動神経もいいし、口悪いくせになんだかんだ面倒見いいからま〜どっちかで言えば体育会系だけど、もしかして、そんなとこで試合とか出てたり?」 「……まーな」 一拍置いて、虹村が答える。 根掘り葉掘り聞かれるのは不快だが、になら話しても構わないと思った。 「えーっ、すごい。ポジションどこ?」 「ポイントフォワード……つって、わかんのか?」 「相手ゴールの一番近いとこから攻撃できるポジションでしょ?」 は利き足をあげて、したり顔で如何にもらしく空を蹴る仕草をしてみせた。 「まあ間違っちゃいねえが、それサッカーだかんな」 「わかってるよ! うーん花形ポジションか……あれ? あんたスポーツ推薦だっけ?」 は頭上にクエスチョンマークを浮かべながら首を傾げる。 「いや、一般入試」 「だよね? だって運動部じゃないしね……」 肌寒げに両腕を擦り合わせながら、腑に落ちない様子でが唸る。虹村は巻いていたマフラーを外し、乱雑にに放った。紺色のマフラーが冬の風にふわりと靡く。虹村は赤い頬を隠すように、先に立ってさっさと歩きはじめた。 「マフラーくらいして来い」 「引っ張りだすの面倒くさくてさ。行き帰り寒いくらい、いいかなって」 「模試当日に風邪引け馬鹿」 「残念ながら馬鹿は風邪を引かないのよ」 |