湿っぽい梅雨も終わりにさしかかり、近ごろは日が昇っている時間も長くなってきた。HRもとっくに終わり、誰もいない教室では西日の洗礼を受けながら、ひとり自分の机でうなだれていた。手にはシンプルな白い封筒が握られている。
 中身はが緑間へ宛てた手紙だが、今日も渡せずに一日が終わってしまった。四月から数えてこれで八通目、渡せないままの手紙が増えていく。直接渡さずとも靴箱や机の中に入れれば済む話なのだろうが、もし誰かに見られたり本人に届かなかったらどうしようとは気が気でなくなる。
 しかしこれ以上、便箋と封筒を無駄にしたくはない。限られた資源は大切に。
 なんとしても今日は彼の机に手紙を入れて帰らねば、とはもはや妙な義務感にかられていた。

 だが手紙を渡すことができたとして、果たしてきちんと緑間と話すことができるだろうか。
 せっかく同じ高校で、しかも同じクラスになったものの、は未だ緑間に話しかけることすらできずにいた。本人を前にすると、緊張してどうしていいのかわからない。あとから知ったのだが、どうやら彼はバスケをするひとの間では有名人らしい。そういえばこの学校はバスケ部が強いと学校見学で小耳に挟んだような気がする。自分はそんなすごい人を好きになってしまったのかと、は少し怖気づいてしまっていた。
 これまで何度も、頭の中でシミュレーションをしてみたが納得のいく答えは出なかった。変に話しかけて嫌われてしまうより、このまま遠くから見ているほうが幸せなのかもしれない。いくら見た目が変わっても、中身までは変えられなかった。結局、自分は今でもひっつめ髪の瓶底眼鏡女なのかとはここにきて痛感した。どうやら自分で思っていたよりも、とんだ意気地なしらしい。
 こうしている間にも、時計の針は着実に仕事をこなしていく。窓のむこうで夕陽が地平線に飲み込まれていく姿に焦燥を感じ、ついには立ち上がった。

 ――うじうじ悩んでも仕方ない。手紙だけは渡すって決めたじゃんか。

 覚悟を決めたは、二足歩行ロボットのような動きで緑間の席へと距離を詰めてゆく。
 そしてとうとう、あと一歩というところで惜しくも教室のドアが開き、はとっさに机のそばから飛び退いた。近くの適当な席に腰掛ける。

「あっれ。 なにしてんの」
 入ってきたのは同じクラスの高尾和成だ。しかも目が合った。
「えーっと、べつになにも!」
 話しかけられるのは予想どおりだったが、はつい声が裏返る。高尾は緑間と同じくバスケ部であり、仲がいいのか教室でもよく話しているのを見かける。それを見てはいつも羨ましいと思うばかりであった。
 そういえば彼と話すのは初めてだ。彼は比較的どんな人とでも話せるタイプだと思うのだが、最も緑間に近い彼をはあえて避けるようにしていた。

「つかオマエの席そこじゃなくね?」
「え、そ、そうだっけ? アハハハ……ちょっとしんどくて、借りちゃった!」
 心なしか早口になってしまったは、笑ってお茶を濁した。
「大丈夫? 保健室行くか?」
 今だけは高尾の親切心が憎らしい。
「ううん平気。そんなことより高尾くんなにしにきたの?」
「オレはチャリの鍵とりに」
 そう言って高尾は自分の席に着き、机のなかに手をつっこんだ。
「お、あったあった」
 自転車の鍵は見つかったようで、会話はここで終わるかと思っていた。

「ところでさあ」
「うん」
「その手にもってるやつって、やっぱ緑間宛?」
 高尾の言葉に、の心拍数は一気に上がった。隠すのは不自然かと思い、あえて手に持ったままにしていたのがいけなかった。口を閉じなければ今にも心臓が飛び出してきそうなのに、空腹にあえぐ魚のように開閉してしまう。

「こここここれは別に友達に頼まれて――!」
 どもり過ぎて言い逃れが苦しい。
「いやってばっちり書いてんだけど」
「っ! なんであたしのこと知ってるんですか……」
「なんでって、同じクラスだし? あ、そういや喋ったことなかったっけ。席も遠いし」
「…………」
 別段クラスで目立つようなことはしていない。まさか名前を覚えられているとは思わなかったが、彼のコミュニケーション能力の高さを考えれば、これといってふしぎなことではないような気がする。
 高尾はいかにも楽しそうに、の正面の席に座った。

「好きなんだ?」
 高尾はチェシャーの猫のように笑っている。あえて誰と言わないところは彼の優しさだろうか、それとも意地悪だろうか。は、顔から火が出てもおかしくないほど赤くなった。
「なんで、わかったの……?」
「そりゃ確信はなかったけどさ、オマエしょっちゅう緑間のこと見てたじゃん?」
「いやああああああバレてる!」
 は恥ずかしくて、両手で顔を覆う。覆ってから化粧のことが気になったが、気にしている場合ではなかった。この分ではすでに本人に気づかれていてもおかしくない。手紙を渡す以前の問題だった。
「もう、こんなの……!」
 はやけになって封筒ごと手紙を破ろうとしたが、高尾はそれを制止した。

「まあ待てよ、大丈夫だって。緑間は気づいてないと思うしさ」
「え、セーフ?」
「けど傍から見てたらわりとバレバレ」
「アウトー!」
 は机に突っ伏した。緑間のことはまわりの女友達にも言っていなかったので、もしや気を使われていたのかと思うと心底申しわけなくなった。
 ひとり悶々と百面相するを見て、高尾は耐えきれずに吹き出す。

「しっかしさあ、意外と――って言ったらなんだけど、って奥手なんだな」
「だって……なんて話しかけたらいいかわかんないし、そもそも緑間くん私のことなんて知らないし」
 言ってて悲しくなった。見かねた高尾が、を励ます。
「話題なんてなんでもいいじゃん。一回話しかけてみたら? なんだったら俺、協力するしさ」
「ほんと?!」
「のぁっ」
 は椅子から立ち上がり、高尾に押し迫った。

 高尾にしてみれば何の気なしの発言だったかもしれないが、にとってはいたく重要なことだ。
「ほんと? 高尾くん、ほんっとに協力してくれるの?」
「え。そりゃ別に全然いいけど」
「よっしゃー!」
 はガッツポーズを決めた。その拍子に、手紙は手の中でくしゃりとつぶれてしまったが、もはやそんなことは気にもならない。
 なかばが押し切ったような形であったが、高尾はたしかに承諾した。彼の協力があれば、緑間への片思いが成就するような気がしてならない。それほどにも心強いと思える味方ができた。

 喜んでいたのもつかの間、唐突に教室のドアが開き、は唖然とした。
 開けたのは渦中の人物、緑間真太郎だった。おそらく自転車の鍵を忘れたと言って教室に行ったまま、帰ってこない高尾にしびれを切らしたのだろう。

「なにをしているのだよ高尾、鍵は見つかったのか」
 教室に入ってきた緑間を見て、はひどく動揺した。握りつぶした手紙は、そのまま丸めてポケットに入れた。
「あ、やっべ。真ちゃん忘れてた」
「忘れてたとはなんなのだよ?!」
 青筋を立て憤慨する緑間に高尾は「ワリーワリー」と謝ると、今度はに手を振った。
「じゃ、また明日な、
「あ、うん……バイバイ、高尾くん……」
 もつられて振り返す。行ってしまう。緑間が行ってしまう。心臓は警鐘を鳴らすように鼓動していたが、緑間と並ぶ高尾を見て、は思い切った。
「あの、緑間くんも、さよなら!」
 すべての時間が止まったような気がした。緑間は「ああ」とだけみじかく応え、二人は教室をあとにした。
 は、ぐにゃりとその場でへたりこむ。全身の骨が溶けてなくなってしまったかのように力が抜けてしまった。緑間に片思いしてずいぶん経つが、初めての進展だった。