登校して教室に到着すると、ほとんどのクラスメイトたちが校庭側の窓に張りついていた。の席はとくに校庭が全体的によく見える、窓側の後ろから三番目にある。あんなに人が集まっていては窮屈そうで、席に着くのが億劫だった。
 もうすぐ予鈴が鳴るというのに、皆が窓の外の何かに夢中になっている。今日は何か特別なイベントでもあったのだろうか。は首を捻りながら着席した。

「あ、さんおはよ」
 隣の席の女子生徒が、声をかけてきた。いつの間に名前を覚えられたのだろうか。彼女はくせのない肩までの髪を後頭部の高い位置でひとつに束ねて、口元に笑みを浮かべている。は少し緊張ぎみに構えたが、仲良くなれるかもしれないという期待を抱いて、挨拶のついでに話をしてみることにした。
「おはよう。あの……みんな、どうしたの?」
「なんか、ミステリーサークル出現? みたいな。もう朝からその話で持ちきりなんだって」
 の問いに意気込んで答えたのは、通りがかった女子生徒だった。ソバージュの髪を耳の下でふたつにわけ、細縁のメガネをかけている。
「や、ミステリーサークルじゃないでしょ」
 とポニーテールは顎に肘をついて、ソバージュを見上げた。
「説明するより見たほうが早いんだけど、石灰で校庭にでっかく文字が書いてるんだって」
「これがさ、誰の仕業かまーったくわかんないらしいよ!」
 ソバージュは声高に、早口でまくしたてる。確かに校庭にそんな不可思議なものが突如現れたとなると、クラスメイトたちのざわめきも頷ける。
「誰かのいたずらなの?」
「かもねえ、生徒指導の先生が、夜中に誰か侵入したかもって話してるの聞いちゃった」
「いや、それはないと思うよ」
 対するポニーテールは落ち着きはらって、校庭の窓に視線をやった。
「ええー、なんでそう言い切れるの?」
「私、今日早めに出ちゃって正門が開く前に来てたんだけど……その時は何もなかったんだ」
「そうなの?」
 は きょとんとして、ポニーテールに続きを促した。

「ちょっとちょっと。その話、私も詳しく聞かせてよ」
 ソバージュの彼女が、の前の椅子を引き出し、背もたれに肘をついて座る。
「詳しくもなにも、そのままだって。正門が開いた時は先生も何人かいたし」
「うわ〜なにそれなにそれ、きゃあ〜人智超えてんじゃん! すごいよ誠凛七不思議!」
「どこの学校にもあるんだね、七不思議」
「いやいやいや、七不思議もなにもこの学校去年できたばっかでしょ」
 そこで会話を遮るように、予鈴が鳴った。校庭を覗いていた生徒たちの大半が、散り散りに自分の席へと帰っていく。
「あー、鳴っちゃった。お昼休み、続き聞かせて。二人とも一緒に食べようよ」
 向かいに座っていた彼女も、残念そうに戻っていった。名前もわからないまま、あっという間に去っていったが、は気さくで親しみやすい彼女にわずかながらの好意を覚えた。

 ――もしかしたら、あの子たちと友達になれるかも。
 は校庭のミステリーサークルとやらに心の底から感謝した。誰かの他愛ないいたずらだったのかもしれないが、自分にとっては思わぬきっかけとなってくれたのだ。人が減って僅かにできた隙間から、そっと窓を盗み見る。
 乾いた土の上には、白い石灰で大きく”日本一にします”と書かれていた。目を凝らさずともはっきりと読み取ることのできる、確固たる意志を持った迷いのない字だ。本鈴が鳴るまでの間、はじっとそれを見つめていた。





 四限目の授業が終わる。の席の周りにはポニーテールとソバージュ、朝の面々が集合していた。お弁当を広げると自己紹介に始まり、誠凛七不思議の話題から様々に広がった。
「へえ、のんちゃん陸上部なんだ」
 ポニーテールの彼女は、ソバージュの言葉に頷きながらパックの牛乳にストローを挿した。制服からのぞく彼女の手足はすらりと長く、溌剌としていていかにも活発そうだ。

「うん。まだ仮入部だけどねー。これでも中体連とか出てたんだよ」
「すっごい、めちゃめちゃ運動神経いいじゃん。足とか速いんだ」
 ソバージュ――えっこはきらきらと目を輝かせ、憧憬を含んだまなざしでのんちゃんを見た。しかしのんちゃんは少し決まり悪そうに、盆の窪に手をやって視線を逸らせる。
「や、まあ長距離なんだけどさ」
「なにそれー、スタミナもあるっていう自慢?」
 えっこは唇をとがらせて「いいなあ」と口の中で呟いた。
「運動するのは好きだけどこれといって得意なものとかないし」
は? 何か部活やってる?」
 二人のやりとりを黙ってみていたを気遣い、のんちゃんが話を振る。二人の話に入れない、というわけではなかった。天真爛漫で朗らかなえっこと、冷静で闊達としたのんちゃんの受け答えは微妙な噛み合いを生み出していて、見ているだけで退屈しなかったため、話すことを忘れてしまっていたのだ。

「まだ入部届もらってないんだけど、手芸部に入ろうかな……って」
「手芸部か、なんかぴったりだなあ。は休日にぬいぐるみとかお菓子とか作ってそう」
 えっこは大げさに、うんうんと頷き焼きそばパンにかぶりついた。
「ぬいぐるみは作ったことないけど、お菓子は作るの好きだよ」
「ほんと? やだ、今度作ってきて」
 えっこの目の色が途端に変わる。
「あ、私も食べたい」
「わかった。日曜日はマドレーヌ焼こうと思ってたから、来週持ってくるね」
「わー、やった。楽しみにしてる」
 ばんざーいと諸手をあげて、えっこは顔をほころばせた。のんちゃんもそれを見て、涼やかな目元をやわらかく細めている。二人とも甘いものが好きらしい。
 いい友だちができたと、は思った。入学の時、胸に重く凝っていた泥のような不安やもどかしさは自分でも気づかないうちに影を潜めている。眠ってしまいそうなほどもったいぶった、緩慢としたものではあるが、の高校生活は思い描いていたものに近づいていた。

 放課後、新しく出来たふたりの友人に別れを告げて、は図書室へ足を運んだ。委員の用事ではなく、自分では買わないような新しい本を読んでみたい。今興味をそそられているのは、近代の小説だった。
 革張りの厚い背表紙ばかり詰めこまれている棚を眺め、はゆっくり通路を歩く。装丁の凝った本の多い華やかな話題書の棚と違って、ここは心なしか薄暗く、人気はないが居心地は悪くなかった。
 は自分の背丈より少し高い場所に置かれている『細雪』に手を伸ばし、いくらかページを捲った。冒頭とあらすじは自分でも知っている。じっくりと実物を読んだことはないが興味はあった。
 カウンターで貸出の手続きを済ませ、図書室を出ようとした時、は出入口のへりに躓いてしまった。周囲には当然、生徒の目がある。自分で自分に嫌気がさしながら、恥を偲んで起きあがると、とっさに手をついていたせいで手提げ鞄を手放していたことに気がついた。
「あれ……? ない……」
 は廊下にしゃがんだまま目を吸いつけるようにして、くまなく鞄を探した。すると視界の端に自分の手提げ鞄が映り、とっさに顔をあげる。
「どうぞ」
 穏やかに光凪ぐ、春の湖面のような声だ。突然現れた彼の顔には覚えがあった。黒子テツヤとは昨日、図書委員会を通して知りあったばかりだ。
「ああっ、ごめんなさい。どうしよう本が……傷んでないといいけど」
 は鞄の中身を確認し、慌てて本を取り出す。
「飛んできたのをキャッチしたので、多分大丈夫です」
「すごい……ありがとう。怪我とかないですか?」
「はい」
「よかった」
 とりあえず胸をなでおろし、もう一度本を鞄にしまった。そこにじっと注がれる黒子の神妙な視線に気がついて、はとっさに目を泳がせた。心臓から顔に血が昇り、頬が火照る。選んだ本がよくなかったのたのだろうか。女子高生にしては趣味が渋い。

「それ、ボクも読みました」
 黒子の言葉はの予想だにしていないものだった。
「あ……うん。有名だから、気になってはいたんだけど……なかなか読む機会がなくって。見つけたから、読んでみようかなって……最近、近代文学が好きで……」
 ぽつり、と降りはじめたばかりの雨だれのように、は言葉を紡いだ。黒子はそれをひとつひとつ丁寧に拾っては、に合わせて相槌を打つ。
「面白いですよね、近代文学。谷崎は、ストーリーに合わせて作風を変えますし」
「そうなの……? 『春琴抄』しか読んだことないけど……すごく感動したから……」
「『細雪』は、また違った面白さですよ。あんなに分厚くて読み応えがあるのに、どんどん読んでしまいますから、気がついたら朝になってて危うく遅刻するところでした」
 黒子は表情の乏しい相好をほんのすこしだけ崩し、うっすらと口元に笑みを浮かべた。も彼に釣られ、もつれた糸が解れていくような微笑みを見せる。
「じゃあ、私も遅刻しないように気をつけるね」
「はい。気をつけて」
 図書室前で黒子と別れ、は深く息を吐いて一緒に肩の力も抜いた。けれど自分で思っていたほど、体は緊張も重苦しさも感じていないようだった。

 週明け、は委員会活動で黒子と一緒に図書当番の仕事をこなしていた。彼は時折、読んだ小説の話を振ってくれるせいか、それほど気が重くはなかった。他の男子と同じ場所にいる時に味わう、どろどろに溶けた鉛をゆっくり飲まされているような緊張感もない。
 は自分が男性が苦手でなくなったのかと思った。けれど相変わらず、ちょっとしたことでクラスメイトの男子に話しかけられても、俯いて、曖昧に濁すような不明瞭な返事しかできない。その度にできたばかりの二人の友人が、それとなくフォローを入れてくれていた。

 どうしてか、黒子テツヤはの知る男子のイメージとはあまり一致しなかった。彼はときどきその場にいることを忘れてしまうようなほど物静かで、声を張り上げたりするようなことは全くないと言っていい。 粗野なふるまいをかけらも見せない黒子には、まさに紳士的という言葉が相応しいだろう。背丈も大柄というわけでないので、威圧感もない。そしてなにより、彼自身がなんとも名状しがたい雰囲気を醸し出している。失礼なことを言ってしまえば、彼はあまりにも存在感がない。
 けれどその存在感のなさこそが、にはありがたかった。